「手話を教えるのに手話の通訳が要らないことは、こいつが身をもって知ってる」
香港映画『私たちの話し方』(原題:看我今天怎麼說)、主人公の1人・ジーソン(游學修/ネオ・ヤウ演、予告編サムネの向かって左)が放ったこのセリフがとりわけ心に残ってます。
『私たちの話し方』は、香港に暮らす3人のろう者の若者の姿を描いた青春群像劇。ソフィー(鍾雪瑩/ジョン・シュッイン演、向かって右)は3歳のときに聴力を失うも、人工内耳を使って聴者と同じように生活を送ろうとしています。
そんな彼女が出会ったのが、生まれながらのろう者であり手話で話すことに誇りをもっているジーソンと、ジーソンの幼なじみで自身は人工内耳を使うが、手話と口話を使いこなすアラン(吳祉昊/マルコ・ン演、真ん中)の2人です。
ろう者を描いた映画やドラマはたくさんありますが、『私たちの話し方』のようにろう者のグラデーションを描いた作品は初めて観た気もします。日本語とか英語とか「どの言葉で生きるか」は、つまり「どの世界で生きるか」を選ぶことだと思うのですが、それは音声言語と手話の間でも同じことなんだなと、本作を見て考えていました。
ソフィーの「解放の過程」を描く
なるべく聴者と同じような生活を送りたいソフィーと、「手話が母語である」という信念をもつジーソンはもともと価値観が正反対。そのことで、最初はジーソンがソフィーに対して強く反発するところから始まります。いわゆる「最悪の出会い」に近い状況ですね。
でもこれは決して本人たちのせいではなく、育ってきた環境が違うことによるものだと思います。ジーソンは親や妹など家族もろう者である「デフファミリー」の中で育ち、手話に誇りをもっているのに対して、ソフィーは幼いころから母親に手話を使うのを禁じられ、厳しい口話の訓練を受けて育ってきました。
そんなソフィーがジーソンから手話を教わるようになり、徐々に「ろう者」としてのアイデンティティに目覚めていくのが、この物語の軸になっています。
ジーソンがソフィーに手話を教える場所として指定したのが、なんとも香港らしい屋台。かなり賑やかな、言ってしまうと周りの声がわりとうるさい場所なので、人工内耳をつけているソフィーにとっては苦手な場所だと思います。
ジーソンがこの場所を選んだ理由も当然あって、それが「手話を教えるのに手話の通訳が要らないことは、こいつが身をもって知ってる」から。「こいつ」というのはアランのことで、子どもの頃にジーソンがアランに手話を教えた経緯があり、もちろんその時も手話を学ぶのに通訳の存在はありませんでした。
つまり、音声言語の“この単語”は手話だと“この動き”で表せるといった、音声言語をベースにした手話ではなく、テーブルの上に並んだ料理などの実際の事物と向き合うことや、あるいは自分の気持ちを手話でどうやって表すかを知っていく過程が、ソフィーの心を解放したと。
後に、ソフィーが母親と口論になった挙句「私もろう者なのよ!」と叫ぶ場面、あれはソフィーが初めて自分のアイデンティティーを見つけて、心から叫んだ瞬間だったのではないかと思いました。心動かされたシーンの1つです。
青春っていいよね…な展開も見逃せない
ソフィーも手話を習得するようになってきて、ジーソンとの“心の距離”も近づいていく。正直、ジーソンは普通に人気あると思う。自分の信念があり、ユーモアもあり、優しさも持ち合わせている。シンプルに人間がカッコいい。
そして、ジーソンもソフィーのことがだんだん好きになっているはず。私がとくに好きなシーンが、ジーソンが洗車の仕事をしている駐車場にソフィーが来て、ジーソンがダイビングのインストラクターを目指して勉強しているなかで出てきた難しい部分を、ソフィーが手話で教えてあげるところ。勉強中の手話で一生懸命ジーソンに教えてあげようとするソフィーが、とにかく健気でかわいい。
そこに! みなさん忘れてないと思いますが、アランもソフィーのことが気になってるという。アランの心情の変化についてなどは、アランを演じたマルコ・ンさんのインタビュー記事に詳しく書いてあります! マルコさんが演じたアラン、めちゃくちゃ素敵だったな。
とにかく当方が思ったのは、アランってもう泣きそうまでに優しいということ(どうして君が泣くの案件)。アランとジーソンはろう学校で出会うけど、アランは当初は普通の学校に通っていて、そこでうまく馴染めなかったため、ろう学校に転入したという経緯だったはずで。
だからアラン自身も辛い思いをしてここまで来ていると思うのですが、それを表に出さないのがこの人間。アランはある意味ろう者と聴者の世界両方で生きていける人だけど、自分も人工内耳が必要という現実もある。そこら辺、もう割り切ってるからこその、泣きそうになる優しさなのかもしれないですね。
ソフィーとジーソン、そしてアランの三角関係も見どころの1つではあるけど、それを濃く描いてないのがこの映画の良いところ。見終わったあとの爽やかな読後感はそのあたりから来るのではないかと思います。
私の話し方で、生きていく。
そうして「ろう者としてのアイデンティティー」に自分の居場所を見つけつつあるソフィーですが、人工内耳の不調が続いて再手術をしなければならないという局面で、再び「人工内耳アンバサダー」の仕事をすることになると。
「人工内耳アンバサダー」の話はこの記事では初出ですが、そもそもソフィーとマルコは難聴者に向けて人工内耳の使用を推奨する「人工内耳アンバサダー」として出会いました。で、このアンバサダーの仕事をするにあたっては、「人工内耳を使えば、手話を使わずとも口話でコミュニケーションがとれるよ」みたいな主張を強要されるわけです。
当初はソフィーも違和感なくアンバサダー仕事をしていたのですが、ジーソン達と出会って手話によって解放された自分を知ってしまってから、この言葉を発するのに抵抗感を覚えるように。
下の記事、日本手話についての話ではありますが、読んで作品への理解が深まったので、一部引用します。

また、「ろう」の意味する想定も、聴者とろう者では異なっている。聴者にとって「ろう」は「耳が聞こえないこと」を意味する。しかしろう者が「あの人はろう者か難聴者か」と言うとき、それは耳がどの程度聞こえないのかを意味しているのではなく、手話話者かどうかを意味している。
日本にあるもう1つの言語 ――日本手話とろう文化(金澤貴之)
ソフィーは難聴を持っているので、聴者からは「ろう者」と見られる。しかし、手話を使っていなかったソフィーは、ろう者のコミュニティでは「ろう者」とは思ってもらえない。聴者にもろう者にもなれない、「自分の居場所にはどこにもない」と思ってしまった。
そもそも、ソフィーはこれまで“自分らしさ”について考える余裕すらなかったのかもしれないとも思います。ソフィーもまた優しくて真面目だから、「聴者みたいに生きないと」という思いに必死で、常に「自分は足りない存在だ」と思いながら生きてきたのかもしれない、と。
でも、「聴者にもろう者にもなれない自分」じゃなくて、「あなたは、あなたのままで十分なんだ」。
ジーソンとアランがソフィーにそう語りかけている気がしたし、3人それぞれの未来を照らすこの映画のラストは3人への愛にあふれていました。そして、自分の話し方、自分の泳ぎ方でいいんだよと、観る人全員の背中を押してくれる映画だと思いました。
